イノベーションのジレンマ(ダジャレの)

きょうのおもな仕事は、イノベーティブなダジャレを2つかんがえたことだったような。かなり2.0的なやつ。むしろマッシュアップと呼びたいようなやつ。あまりにくだらないのでいまここで言ってしまいたいのだが、NDAに抵触するなあ(うそですが)。

ダジャレというのが問題解決のためのソリューションとしてとてもすぐれていることには論をまたないのだけど、でもそこにはワナがあるんだよね、と前ガビン先生が言っていた。つまり、ダジャレはぜつみょうなタイミングで言うとカタルシスがありすぎるので、それだけでもうなにかがうまくいったように感じてしまうということなのだ。じっさいにはダジャレというのはコンセプトにすぎなくて、それを具現化するひつようがあるのだし、そこにはダジャレをいうのとは別の能力がひつようなのだ、たぶん。

爆発力のあるダジャレには「ここには絶対になにかある!」と誰もが思わされるわけだが、その「なにか」はたいていの場合、なんであったのか解き明かされないまま、けむりのように消えてしまう。

あとなんだっけ、「酒でよっぱらうと何がおもしろいんだかわからなくなるので、ダジャレはかならずしらふで徹夜で言い合うとよい」というのもガビン先生が言ってましたよ、授業で。